いいづかMEMO 2005年5月1日設置/文責 飯塚優子
第二次・駅裏8号倉庫 札幌市北3条東3丁目
駅裏8号倉庫は、1981年9月にオープンし、1986年4月で活動を終結した、札幌のフリースペースです。
飯塚はその企画運営委員会メンバーのひとりでした。
ここには、私の記憶をメモします。(企画運営委員会による公式記録ではありません。)
思い出したこと、分かったことを順次追加していきたいと思いますので、万一、間違いなどありましたらご指摘ください。
また、みなさまの8号倉庫の思い出、ご記憶のことなどありましたら、どうぞお寄せください。
連絡先 info@akai-mi.com
■情報追加・訂正等
2022年10月27日 第2次倉庫運営委員・細川和則さんの逝去を記入
2019年3月22日 石田記者のお名前 間違いを訂正
×徹 ⇒ ○透
2019年2月15日 道新石田透記者の指摘により以下を訂正
第1次倉庫の住所 ×中央区 → ○北区
運営委員・前田さんの氏名 ×重治 →重和
第2次倉庫の連絡事務所 途中でバナナボートからエルフィンランドに変更になっている。
2018年1月19日 運営委員・菊地智晴さんの逝去を記入
2013年9月5日 一部追加、訂正、整備
2012年10月18日 訂正:駅8の活動終了時期 1986年2月は誤り。正しくは1986年4月27日
※駅8ラスト57日間(マラソンイベント)
1986年3月1日(土)〜4月27日(日)開催
トップ写真掲載、ロゴを運営委員名札からスキャンして掲載
拓殖倉庫、コマノ倉庫に関する関連記事リンク、ほか文章一部修正
2008年1月10日 駅裏8号倉庫の思い出、メールと写真が寄せられました(下欄)
●開設の経緯
駅裏8号倉庫開設の発端は、劇団53荘(植田研一代表)の稽古場探しでした。
劇団の創造拠点であり、公演もできる場を求めるなかで不動産仲介業者から浮上してきたのが、拓殖倉庫株式会社が所有する石造倉庫でした。
場所はJR札幌駅の北東裏。旧そごうデパート(現ビックカメラ)の東側の通りを北上すると、当時は踏み切りがあり、これを渡った右手(現在高架となって
線路が通っている)に、札幌軟石づくりの倉庫が何棟も並んでいました。
8号倉庫は、西端、道路沿いの棟の中央部分で、広さは45坪。明治の建設で、当初は農作物や亜麻などが収蔵されたということです。
これを利用するには、いち劇団で維持することは難しく、他の劇団、さらには映画、音楽などにジャンルを広げて、複数の団体、個人が参加して
企画運営委員会を結成し、運営管理に当たることにしました。
●第1次駅裏8号倉庫 1981年9月〜1982年9月
住所 札幌市北区北6条西1丁目 (札幌拓殖倉庫株式会社の倉庫)
連絡事務所 エルフィンランド:中島洋(中央区南2条西5丁目東映仲町)
企画運営委員会 代表 植田 研一(劇団53荘:ごじゅうさんそう)
菊地 智晴〈お芝居集団:おしばいぐるうぷ) 2018年1月19日逝去
滝沢 修 (劇団 極)
松崎 霜樹 (貫索舎)
中島 洋 (シアターキノ)
浜田 正春 (ビーチフラッシュ)
麻生 知宏
竹谷 州央
小室 治夫 (カロリーブック)
前田 重和 (ミルク)
雨宮 基治 (くれよん) 逝去
飯塚 優子
●第2次駅裏8号倉庫 1983年6月〜1986年4月
住所 札幌市中央区北3条東3丁目 (コマノ製綿株式会社の倉庫)
連絡事務所 バナナボート:和田博巳(中央区南3条西6丁目)→和田さんの都合によりエルフィンランドに変更。
企画運営委員会 代表 植田 研一(劇団53荘)
菊地 智晴〈お芝居集団) 2018年1月19日逝去
滝沢 修 (劇団 極)
松崎 霜樹 (貫索舎)
中島 洋 (シアターキノ)
浜田 正春 (ビーチフラッシュ)
麻生 知宏
竹谷 州央
小室 治夫(カロリーブック)
宮沢 春之 (パラフレーズ)
細川 和則 (ロードランナーショウ) 2022年9月末 逝去
飯塚 優子
●資金、家賃等
倉庫入口の防音ドアを整備、2階部分を改造して機材収納等のためのロフトを設置。
また工事現場用のくみ取り式トイレ2基を設置。その他、初期整備のために、
運営委員が30万円ずつ出し合い、故扇谷治男さん他の支援者からも寄付をいただきました。
会場は、運営委員(団体)が自分たちの表現活動や企画催事に利用するほか、他の団体の利用にも開放しました。
家賃は月25万。これに電気代ほか5万円をみて経費は月30万円。ひと月に15日利用があるとして、会場使用料を1日2万円としました。
会場使用料は運営委員〈団体)が利用する場合も、外部団体の利用に供する場合も共通料金で、
月1回程度の企画運営委員会で調整して担当を決め、外部団体利用の管理にあたりました。
特に利用が少なくなる2月には、マラソンイベントを組み、最低限の収入確保を図りました。
●第一次倉庫は、鉄道高架化工事のため撤去され、北海道開拓の村(江別市野幌)に移築復元保存されました。【関連記事】
■関連するサイトへのLINK
SAPPORO INTERVIEW MAGAGINE
シリーズ「駅裏8号倉庫とは何だったのか」と題して
バックナンバーVOL.1に 中島 洋さん(シアターキノ代表)
VOL.3に 飯塚のインタビューが載っています。
投稿
■「駅裏8号倉庫の思い出」メールをいただきました。 2008年1月10日
8号倉庫は、高校時代に友だちとよくLiveなどを見に行っておりました。
特に印象に残っておりますのは1984年のお盆の「北日本反日武装」という
東京から来た「病原体」が出演しましたLiveです。
倉庫内の気温がとても高くて、2階で温度計を計って
40度近くあったと言ってみんなが騒いでたことを思い出します。
観客がケンカをして多くが流血し、向いのガソリンスタンドへ走って行って
勝手にホースで水を借りて血を流しており、大顰蹙でした(笑)
とにかく当時は活気があったです。
当時の2階には今は無きグールのマックス(マサミさん)の直筆サインが
ありまして写真を撮った覚えがあります。
マサミさんは現在も片腕のパンクスとして伝説の人ですので、
壁にそのサインが残ってましたらどれほど貴重だったことでしょう。
8号倉庫は本当に伝説になってしまいましたね。けれど
期間が短かったからこそ、伝説になったのたど思います。
(40代主婦)
●届けていただいた写真はこちら(ちょっと重いです)
以下は、2001年9月14日北海道新聞夕刊に掲載された記事です。
「駅裏8号倉庫」誕生から20年 〜記憶に残る魅力的空間
飯塚 優子(赤い実企画代表/元「駅裏8号倉庫」運営委員)
1981年9月にオープンしたフリースペース「駅裏8号倉庫」を、実際に知っているのは、40代、50代の方々であろう。
若い人たちには、すでに伝説の空間であるかもしれない。
この建物は、JR札幌駅の北東裏(北6西1)に何棟も並んでいた札幌軟石づくり倉庫のひとつで、明治45年建設。
当初は農作物や亜麻などが収蔵されたと聞く。劇団53荘(ごじゅうさんそう:植田研一代表)が、創造拠点であり公演も
できる場を探す過程で候補にあがったものだ。広さは45坪。はり下で4.5b、最も高いところで7.1bと天井が高く、空間
に身をおくだけで創造力が刺激される不思議な魅力があった。(現在は「北海道開拓の村」に移転復元保存されている)
この空間を、ひとつの劇団で維持することは難しく、他の劇団、上映グループ、音楽関係者などに輪を広げ、計12名の
運営委員によるフリースペースとして利用することにしたのである。運営委員は、ひとりひとりの人脈や関心に応じ、演劇、
映画、音楽、現代アートやパフォーマンスというようにおよその専門領域が決まっていたが、必ずしもそれにこだわらず、
月1回程度の運営委員会で互いの仕事の都合などを配慮、調整して貸館の管理担当を決める。運営委員の団体が利用
するほか、幅広い地元のグループ、東京などから来札するアーティストにも、「駅8」は良く知られていた。
8号倉庫は、ジャンルを問わず、プロ・アマを問わず、人とアートが交錯する場所だった。運営する者、借りて利用する者、
出演者、観客、参加者。誰でもがここを「自分の場」として、欲しいものをキャッチし、発信することが出来た。この空間が
今も語り継がれる理由は、なによりもまず石造倉庫の空間の魅力である。そして、運営委員として集まったメンバーの多彩さ、
その人脈から派生する話題性あるプログラムの魅力。そして、この空間を必要とし、運営しようとする意志が、表現に関わる者
の共感を得、いまも多くの人の記憶に残っているのだと思う。
「駅裏8号倉庫」の最初の建物は、鉄道高架工事のためオープンから1年の82年9月閉館。次いで83年6月、北3条東3丁目に
2つ目の倉庫を探し当て、第2期の活動を開始した。駅裏とは言えない場所だったが、名称は「第2次・駅裏8号倉庫」とし、86年
2月まで活動を継続した。
8号倉庫閉館後、運営委員はそれぞれの道を歩んだ。
ミニシアターを経て市民出資による劇場「シアターキノ」をオープンさせた中島洋。現在も劇団極を主宰し、北海道演劇財団所属
TPS養成所で若者の育成にあたる滝沢修、コミュニティFMや演劇による地域づくりを模索する松崎霜樹。一昨年亡くなった雨宮
基晴は、埼玉で演劇鑑賞組織を立ち上げ事務局長として活躍していた。飯塚は昨年暮れ、フリースペース「レッドベリースタジオ」
を開設し、人と暮らしとアートが出会う場づくりをはじめた。演劇や映画から遠ざかり経営者や管理職として社会の中枢で働く者も
多い。ひとりひとりの20年が経過した。
私にとって、おそらくは他のメンバーにとっても、8号倉庫は今もアイデアと経験のおもちゃ箱である。こんな時、8号ではどうしたか。
あのとき8号は何を選択したか。どんな人がどんな役割を担っていたのか。温度差のあるメンバーでどう折り合ってゆくか。
どうすれば面白いか。そういえば8号でお手のものの、あの手がある、等など、迷ったときや新しい事をはじめるとき、東映仲町の
「エルフィンランド」で呑みながら議論した運営委員会を思い出す。
8号倉庫開設の原点は、自分たちのための場づくりである。この発想を共有する仲間を増やすという意味で貸館も行ったが、
運営の安定や社会的役割を担って持続することを第一義とはしなかった。第2次倉庫閉館に当たって、常勤職員を置いて発展的に
活動を継続させることも検討されたが、最も素朴な協働運営体制から、ひとひとり食べていけるような施設経営に移行することは、
自分たちにとっての活動の根拠という点で、全く違ったものになる可能性を含んでいた。私たちはそれを選ばなかった。
昨年末、札幌では、8号倉庫が閉館した86年、入れ替わりにオープンした「マリアテアトロ(旧札幌本多小劇場)」が15年の歴史に
ピリオドを打った。そして今年「BLOCH」と「ZOO」というふたつの小劇場がオープンし、道の懸案である北海道劇場構想も進展を
見せている。一方、西区琴似でフリースペース「コンカリーニョ」が再開発による閉館の危機さらされている。
それぞれの誕生と閉館の事情、状況を見るにつけ、どこにも共通する問題は、財政基盤と運営システムの整備、そこに関わるひとの
意識のありかたである。8号倉庫はそのような意味で、ひとつのシンプルなモデルとして、札幌の現状に問いかけてくる。
有志の労作であるマリアテアトロの記録冊子「250席の永遠」をみるにつけ、8号倉庫の記録と記憶を、今からでも集めておきたいと思う。
それを口にするといつも叱られる。「Yくんとあなたが資料を提出しなかったから、記録集が出せなかったんじゃないか」。
ごめん、ごめん。せめて集められるだけの資料、記録をCD−ROMにいれておこうという話が、10年くらい前からあり、20周年の節目に
着手、実現できたらうれしい。