MEMORYS  2006年9月〜2007年4月


2007年3月15日(木)  めぐり来る春の、例のひと仕事

  確定申告に行ってまいりました。
  ゆうべ遅くに、突然思い出したのです。
  「そういえば、いつまでだっけ? 
   ・・・・・(カレンダーを見る)・・・・・
   ガ〜ン!!! きょうまでじゃないの!」
  というわけで、速攻で申告書を作成。
  源泉徴収票はずいぶん前にちゃんと揃えてありますからね、
  大丈夫ですよ。
  それに去年から、国税庁ホームページの「作成コーナー」というのを使うと
  実に簡単に書類が出来てしまうのです。
  手書きでなく、パソコンで入力できるのがありがたいし、
  計算もしてくれるし、所定の欄に所定の数字が表示される。
  で、ルンルンとプリントアウトして、春の雪のなかを出かけ、
  税務署の建物を見たとたんに気付いた。
  捺印していない!
  家に戻って押印し、再度足を運んで提出してまいりました。
  はい、これで源泉で差し引かれた分が戻ってくるでしょう。
  
  家族の間では「前の晩に気付くなんて・・・」
  と、あきれられてる。
  でも、気付いただけいいじゃない・・・・・ね?


2007年2月27日(火)  さあ、これから。

  きょうは My Birthday です。
  なんとまあ、自分の精神年齢に似つかわしくない年齢なのですよ。
  しかしまあ、もはや自分は立派な大人である、と観念して
  しっかりやっていこうと思います。
  娘からのプレゼントは、小さなオカリナ。
  ピーと吹くと、ねこがニャー!
  ピポッと鳴らすと、ねこがニャオーン!
  ねこが本気でおはなししています。
  ひと区切りの春、1日過ぎれば、3月。


2007年2月7日(水)  インターネットがつなぐ縁

  きのうから「さっぽろ雪まつり」が始まった。(テレビで見ただけですが)
  暖冬で、雪像づくりはとてもたいへんだったことでしょう。
  でも開催と同時にキリリと冷え込んで、大雪で、観光客の皆様も大満足でしょう。
  いや、雪まつりはテレビで見るのが一番、なんて言っちゃいけないか。  
  10数年前までは、がんばって見に出かけたものです。
  真駒内会場の、小さなSLとか、アニメをやっている古〜い劇場の建物がいい感じで
  なかなか楽しかった。
  放送局でアルバイトをしていた頃(ん?30年前ですね)
  雪のステージの生放送歌謡ショウの仕事があって
  ディレクターの沼田さんに叱られたなあ・・・。
  なんだかどれも、雪像の想い出ではないのですね。
  雪像で一番印象に残っているのは、かれこれ40年位前だと思うけど、
  「京の五条の橋の上、牛若丸と弁慶」の像で、
  牛若が片足で欄干の上に立っているのよ。これは迫力ありました。 

  話は変わって、きょう、面白いことがあった。
  東京の方から電話で
  福原百之助先生の「三春幻想」という曲のCDはどこで買うことができるでしょうか?
  という問い合わせ。
  え、なぜ私のところに? と言いかけて気付いた。
  以前、レッドベリースタジオの篠笛の会のとき、
  福原光之助さんがこの曲を演奏したのだった。
  私がサイトのどこかに書いたことから、検索でたどっていらしたそうだ。
  インターネットって、思いがけないご縁をつなぐものらしい。
  実は先日、さらに壮大な出会いがあった。

  突然、横浜の方からメールが入り、赤い実で出版した「十勝植林記」を
  3冊も買ってくださるという。
  これはまた、どうしたことかと思いつつ、早速お届けしたところ
  実に思いがけないお話なのだった。
  「十勝植林記」には、祖父・仲田市太郎の遺稿「北見遊見記」が収められているが
  このなかに、大正7年、北見紋別の富豪・飯田嘉吉を訪ねた記録がある。
  横浜の方は、この飯田嘉吉のひ孫にあたる方だった。
  飯田は、鴻之舞金山と渚滑川流域の木材で大きな財を築いた立志伝中の人だが
  大洪水や関東大震災で再起不能となり、失意のうちに東京で亡くなったという。
  そのためか、嘉吉氏本人も、息子の榮氏(祖父・市太郎はこの人に会っている)も、
  北海道でのことをほとんど何も語らずに亡くなったのだという。
  現在、榮氏の息子にあたる方も健在だが、これまでは手がかりが無かった。

  インターネットで、「飯田嘉吉」をキーワードに検索するうち、
  嘉吉について触れた「十勝植林記」があることを知り、
  連絡をくださった、というわけだ。
  私の祖父は、大正7年当時、道内屈指の富豪だった飯田嘉吉に憧れ、
  紋別まで出かけてその材木工場を見学した感激を、めんめんと綴っている。
  その時、祖父を案内してくれたのが榮氏であり、
  私と、横浜の方は、たがいの祖父が、88年前に会っている、ということになる。
  なんとも不思議なご縁。
  明治から大正の北海道が、またまた生き生きと息づき始めた。


2007年1月3日(水)  ちょっと、のんびり。

  新年あけましておめでとうございます。
  それにしても雪の少ない、おだやかなお正月。
  このまま春になりそうな・・・、でも、そういう訳にもいかないでしょう。
  冬は冬で、ちゃんと冬を全うしなくてはいけません。
  これじゃ雪まつりも出来ないものね。

  元旦、2階の窓から初日を参拝。
  燦燦と輝く太陽に、琴似教会の十字架が重なって
  なんともいえないパワーだった。
  昨夜と今夜は、月がまた美しい。   

  夕方、さんまときむたくの「さんたく」を見る。
  お正月恒例の、のんびりバラエティ。今年で5回目。
  年齢もキャラクターも違う男ふたりが、あれこれ遊びながら
  いい顔をたくさん見せてくれる。娘と私の、超お気に入り番組。

  というわけで、明日からは日常に復帰しま〜す。
  今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 


12月30日(土)  忘れがたい日々

  毎年飾っている「繭玉」を買いに、娘と琴似駅前のヨーカドーに出かけたのだが、
  出来上がって袋に入った正月飾りだけ寂しげに並んでいて
  例年のような「歳の市」の活気がない。
  これではいかん、とマックスバリューを見たがここも同じようなもの。
  さらにフレッティに足を伸ばして、ようやくいつものような小屋掛けの「歳の市」を見つけた。
  おじさんが枝ぶりの良い小枝を選んでくれて、色とりどりの「繭玉」かざりを購入。
  水をつけて貼り合わせ、枝に付ける。
  こんな正月あそびをする家は、もう少ないのかしら?
  
  台所と洗面所を集中的に大掃除。もう、ピッカピカなのだ。
  今年は早々と年賀状も投函したし、明日は「うま煮」づくりだ。
  
  今年は、本当に色々なことがあった。
  いいこと、嬉しいこと。達成したこと。決着したこと。新しい出会い。
  逆に、いくつもの訃報など、ずっしり重いことも多かった。

  来年は、これまた大車輪で働かなければいけないなあ・・・・・。
  今から、予想できる。
  うん、がんばれる場があるということは、ありがたいことなんだ。
  私は行くよ!前に向って。
  古川さん、萬年さん、岩沢さん、長い間、本当にありがとう。
  
  みなさん、今年いち年、本当にお世話になりました。
  来年もどうぞよろしく! レッドベリーの新たなチャレンジにご注目ください。
  どうぞ良いお年をお迎えくださいね。


12月15日(金)  出会い、ひろがる。

  すっかりご無沙汰してしまいました。
  お変わりありませんか?

  10日、レッドベリーのクリスマスコンサートを終了。
  西高アトリウムオペラ「蝶々夫人」のご縁で
  ソプラノの南出薫さんに出演していただきました。
  当日はものすごい雪。
  いつも足を運んでくださる近隣主婦の方々がひとりもおみえにならず、
  心配が的中して、お客様は一桁。そのかわり今回はなぜか男性客が多く足を運んでくださり、
  南出さんが指導している中高年コーラスグループ「コールブリランテ」のみなさん、総勢20名
  の出演もあり、会場は実ににぎやかでした。
  
  この日、NHK札幌放送局「ほっからんど北海道〜この街、この笑顔」の取材があり、
  私は朝からJR琴似駅周辺でのロケで、スタジオに居られませんでした。
  コンサートの準備を担当してくれたのは
  うそっぷの会にも参加している伊藤さん、近所の岩沢さん、学院大学生の幡くん、長澤くん、
  それに母と娘でした。本当にありがたい、頼りになるみなさんなのです。

  収録された番組の放送は、来週、12月22日金曜日の午前11時半過ぎとのこと。
  八軒の街と赤い実の活動が15分ほど紹介されます。
  
  そしてもうひとつ、この日の出会いからライブ企画が生まれました。
  お客様の中に、私がときどき出かける琴似のまちの素敵なバー「ディバーション」
  マスター星さんがいらしたのですが、
  南出さんの歌声をぜひ、とのことで、25日夜、ディバーションでのクリスマスライブが決ったそうです。
  素敵! 私も聞きに行こう〜っと。


11月7日(火)  想いをたどる旅

  ひと月ぶり、ご無沙汰です。
  10月中旬から微妙に体調が下降し、今月に入って形に現れ、
  数年ぶりの胃けいれんに見舞われた。2日眠ってどうやら回復。

  片付けものを続けている。
  数年手をつけていないところを、どんどん暴いて不用品を廃棄。
  どうにも想いが残るものは、ためつすがめつ写真を撮って
  しばらく遊ぶ。
  公園脇のゴミステーションで、
  「さよなら」と手を触れると、カラスが不思議そうに首をかしげる。
  生活環境はだいぶすっきりしてきた。
  でも、まだまだ、捨てなければならないものがあるなあ・・・。

  さかのぼって10月14日(土)10:00から
  嘉村美和子さんのピアノとお話、歌唱指導で、みんなで歌う会開催。
  「ただ、うたう」ということが、こんなに楽しい。
  知っているはずの、あの歌、この歌、こんな歌詞で、こんな裏話があった。
  そんなうれしい発見がたくさんあった。
  これは是非また、開催しなくちゃ。

  終了後、嘉村さんを交えて、いつもレッドベリーに集まる仲間たちで昼食会。
  更に遠来のお客様や、「八軒物語」の仲間がやってきて
  この日スタジオは、丸一日、おしゃべり日和でした。
  
  10月28日(土)〜29日(日) 一泊で紋別に行ってきた。
  劇団海鳴りの創立40周年記念公演「満天の星〜駅逓物語り」の
  ご案内をいただいたことが、思い立ったきっかけ。
  だがこの旅にはもうひとつ、動機がある。
  6月に発行した「十勝植林記」のなかに
  祖父・仲田市太郎が大正7年、北見方面を旅した記録「北見遊見記」があり
  88年前の祖父の足跡をたどってみたかった。
  さらに、祖父が新得に定住した最初の家が、駅逓を改造した家だった、
  という話を聞き、海鳴りの芝居の内容に縁を感じたことも理由のひとつ。

  28日9時41分発のオホーツク3号で出発。
  席に落ちついて、改めて「北見遊見記」のページを開いて驚いた。
  書き出しは、こうである。
  「大正七年十月二十八日 積もりし尺餘の雪も既に解けて天高く星光赫々たるの夜、
  遊子の奇心北に走せて明朝こそは必ず日頃の宿望を達せんものと雄心勃々として
  眠ることも得べからず 否速刻暗を侵して出発せんものと・・・・・・」
  はからずも、祖父と同じ月日に出発することになった。

  13:19遠軽に到着。湧別経由紋別行きのバス時刻を確かめると
  15:40までないというので、タクシーで「北海道家庭学校」を訪ねた。
  大正3年に開設された少年の教護施設。現在は約40名が寮生活をしながら、
  広大な敷地での農業、酪農、園芸、木工など生産活動や勉学、スポーツを通じて
  健やかな心身を取り戻す生活を営んでいるという。
  本当は、あらかじめ事務所に問い合わせ、申し出てからでなければ
  敷地に立ち入ることが出来なかったのだが、運転手さんに
  「もっと奥の、礼拝堂のところまで行ってください」と、どんどん進んでしまった。
  礼拝堂の、柏の落ち葉が美しい林の入口で、
  花を携えた女性から「事務所に断ってきましたか?」と声をかけられた。
  謝って事情を話すと、「まあ、いいでしょう」と礼拝堂に入れてくださった。
  大正8年に建てられた木造の美しい礼拝堂。
  強い意志と、柔らかな心で紡がれた長い歴史。
  あの時あそこで、あの方に会わなければ、建物に入ることは出来なかった、と思うと
  ここでもまた、不思議なご縁を感じる。
  この学校を、なにかの形で支援したいと思った。

  祖父が旅した時代、汽車は湧別(当時は下湧別)まで通じていたが
  そこから先、紋別までは徒歩、又は馬車で行ったという。
  海沿いの一本道をたどって、夕刻、紋別着。
  早速、閉館間際の図書館を訪ね「十勝植林記」を贈呈。
  職員の山田雅也さんが、別に1冊、買ってくださった。
  祖父が紋別を訪れた理由は、当時、渚滑川流域を一手に納めて
  製材業を営んでいた富豪・飯田嘉吉を訪ねることだったようだ。
  数奇な運命をたどった飯田について、
  山田さんは多くの資料をお持ちだということで、あれこれとお話が弾んだ。
  
  夜、市民会館で海鳴りを観劇。
  現存する上藻別駅逓の建物からイメージした創作劇。
  時間を超えて、過去を生きなおそうとする感覚や
  町の人たちの反応が、「八軒物語」と実によく似ていて、
  明治、大正という時代の北海道が、またひとつ、身近になった。
  終演後、すばらしく美味しいお寿しをご馳走になり、
  ホテルに帰って天然温泉につかり、なんとも極楽極楽でありました。
  
  翌朝5時半。
  まだ暗いうちに、海鳴りの役者・北原さんが車で来てくださって
  修復保存されている上藻別駅逓へ。
  朝露の夜明けに浮かび上がる駅逓の建物は、なんとも懐かしく、やさしく、
  維持するために奮闘しているボランティアの方々の想いが感じられた。
  取って返し、渚滑川河口に連れて行っていただいた。
  88年前、祖父はここで飯田嘉吉の木材工場を目の当たりにして、次のように書いている。

  「噫、偉なる哉氏の事業たる 之を見、之を聞きて奮発の念起らざる者は男子にあらざるなり、
  余、此の景を目撃して河に臨て恍然たること久し、夕陽既に西山に没するも余をして去るに
  忍びざらしむ、彼も人なり我も人なり、人に貧富の種あらず富豪の名 豈独り彼にのみ恣に
  せしむべけんや」
  
  今はただ茫洋として、川とも海とも見分けが難しい河口で、若き祖父の心の内を思った。
  千葉の小作の倅として生まれ、慈恵医師となり、植林の志を持って北海道に渡ってきた、
  これはその翌年、定住する町を探索する旅だったのだ。
  
  後年、祖父がよく書き記したお気に入りの言葉に
  「満山の落葉松 今や黄金色を飾るの時」というのがある。
  この言葉どおり、帰路の列車の窓からは、色鮮やかな落葉松林を見ることが出来た。
  
  長くなりました。
  近いうちに、最近見た舞台の話など書きたいと思います。


10月9日(月)  歌の魅惑、いのちの輝き。

  6年前の引越し以降、手付かずで戸棚の奥にあったダンボールを開けたら
  学生時代、寮で使っていたティーカップが出てきた。
  透明の耐熱ガラスのシンプルなカップ&ソーサー。
  持ち出して洗い、紅茶を入れる。傷がついているが実に丈夫に出来ている。
  
  流れた時間を思う。
  生まれてから、このカップを使っていた頃まで18年。
  卒業してから、子どもが生まれるまで18年。
  それから今まで、18年。
  このカップから現在までは40年。これが「40年」という時間。 

  10月7日 念願だった札幌西高アトリウムでのオペラ公演を終了。
  PTAの催しとして企画を採用していただいたおかげで、年来の夢がかなった。
  吹き抜けの3階まで歌声が満ちて、なんとも贅沢な時間。
  一説には、ブロードウェイの「蝶々夫人」よりも良かったとか。
  あらためて、人間の声というものの多彩な豊かさに魅惑された。

  9月29日 西28丁目の「ジャムジカ」で、本居まみさんのライブを聴く。
  9月はじめ、すすきのの「ピアノーラ」でたまたまお会いした
  アメリカ帰りのジャスヴォーカリスト。
  なにか気になって、歌を聞きに出かけた。
  小柄な本居さん、リンパ腫の闘病を続けながら
  「歌うのが、楽しくて、楽しくて」身体はとても疲れるけど
  歌い続けている、と話した。
  またひとり、病を抱える素敵な人に出会った。


9月26日(火)  きょうも1日、楽しかった。

  21日 母と新得に行ってきた。札幌から2時間半、ちょうど良い日帰り旅だ。
  「十勝植林記」に関連して、懐かしい方々にご挨拶し、記念の場所をたずねた。
  ふるさと十勝の青空のもと、82歳の母はなんとも元気で、笑顔が輝いている。
  17日には、持参するおみやげなどを買いに、久しぶりに一緒に町へ出たのだけれど、
  これまた元気なのだ。本当は、あちこち痛かったり、不具合だったりしているのだが
  本をきっかけにして様々な方からお便りをいただいたり、言葉を交わす機会が増え、
  そんな気持ちのハリが、あんなにも明るい気持ちにさせている。
  新得での1日を、道新が記事にしてくれた。(こちら

  24日 札幌室内歌劇場の「魔笛」を見る。
  この団体の公演を見るのは初めて。とても楽しかった。
  室内楽アンサンブル(バイオリン、チェロ、フルート、ピアノ、チェンバロ、チェレスタ)
  が、しっかりした暖かい演奏で、とてもいい。
  (チェンバロの譜面を照らす照明が、位置・角度の関係で観客席からみて明るすぎ、
  薄暗いシーンなどではステージの邪魔になることがあったのが残念)
  キャストひとりひとりの位置付け、キャラクターづくりが明確で、
  演劇としてしっかり演出されていることもよかった。
  夜の女王を宙に浮かせる工夫は見せどころ。気合を入れて歌うとブランコが揺れて
  ヒヤヒヤした。かさ上げ義足をつけたザラストロの家臣ふたりは、終演後のロビーでも人気者。
  客層は、お目当てのアリアが始まると身を乗り出すようなマニアとともに
  思いのほか若い男女が多い。おそらく出演者の教え子や仲間たちだろう。
  年齢層が幅広く、男女の比率バランスのとれた客席というのは、いいものだ。
  日本語訳での上演だが、なぜか則竹正人さんの言葉だけが、はっきり日本語として
  聞こえてくる。この人の演技力はこの集団の宝物。 
  
  憲法9条に関する本を2冊読んだ。
  「憲法九条を世界遺産に」 太田光、中沢新一
  「9条どうでしょう」 内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩
  なぜそんな気になったか、は言わない。

  「花のほかには松ばかり〜謡曲を読む愉しみ」山村修 という本を読んでいる。
  これは面白い。著者はごく最近亡くなったとのことで、この本を辞世と読むことも出来るだろう。
  謡曲の言葉の中に、あるいは劇としてのつくりのなかに
  これほど鮮烈な世界があったなんて。
  気負いの感じられない、分かりやすい文章で書かれているが、内容にはドキッとさせられる。  
  本当においしいものをいただくときのような嬉しさで、だいじに、だいじに読んでいる。

  琴似神社向かいのビル地下にある「ソクラテスのカフェ」に行ってきた。
  「なぜ売れない!売れない文庫本フェア」でヒットを飛ばした地元の本屋さん「くすみ書房」が
  仕掛けた古本ブックカフェ。一度のぞいてみたかった。
  書棚で仕切られていくつかのコーナーに分かれ、落ち着いて本が読める。
  紅茶を注文したが、ちゃんと入れたおいしいものだった。暖かいスコーンもよいですね。
  ここで読書会や、英語教室や、韓国語教室や、色んなことを始めている。
  どんな展開になっていくか、要注目だ。   


9月15日(金) 赤い実の季節に、話したいこと。

  夕方が大好きだ。晴れた日の、まだ明るい暮れ方(16:30〜17:00ころですね)
  空を見ながら缶ビールをあける。
  きょうも、ちょうどそんな時刻に外出から戻り (あ、1日過ぎちゃったからきのう、ね)
  青い空に映えて、ななかまどの実が赤く色づいていることに気付いた。
  なんて、きれい! 秋、だ。
  春から夏、この3〜4ヶ月は、私の人生でちょっと特別な時間だった気がする。
    
      4日、江別ドラマシアターどもで、久しぶりに愚安亭遊佐の一人芝居を見た。
   愚安亭さんの芝居、20数年見てきたけれど、変った。
   どう説明してよいか・・・。
   これまでの芝居は、観客に向って、まっすぐ、ぐんぐん迫ってくるような印象だった。
   今回は、なにか、内へ、内へと渦巻いていくイメージやエネルギーが
   役者の身体を介して、その姿かたち、動きを通じて、客を照らすような感じなのだ。
   昔、歌右衛門の「墨田川」を見たときに感じたものと似ている。   
   マイルス・デービスのトランペットの印象とも似ている。
   愚安亭さんの立ち姿って、こんなに粋だったっけ?
   見たことのない表情もたくさんあった。スゴイ芝居になってきた。   
   病気で一時入院したり、この夏還暦を迎えたことが、なにがしか影響しているのかな。
   「老いる(オ・イ・ル)」という音は、「生きるつづける」という意味だと
   挨拶で語った愚安亭さんは、こころなしか小柄になった。
   でもさ、愚安亭さん。いまの60歳って、まるで若いじゃない。
   病気とはうまく付き合って、芝居の新境地、もっともっと見せてくださいね。 

   9日、テンポラリースペースを訪ねる。
   地下鉄西28丁目駅のそばにあった中森花器店&テンポラリースペースが
   今年1月、立ち退きとなって、中森さんが札幌じゅうを歩き回った結果、
   北16条西5丁目に新しい場所を見つけた。 
   開催中の佐佐木方斎展に展示されている10冊の「美術ノート」。
   見覚えのあるものが多い。
   80年代、自分が身を置いた時間をあらためて見直す。
   「80年代と90年代は何が変ったのか。なぜ、90年代に入ってまちの熱気は失せていったのか」
   という話をする。というか、中森さんの話を聞く。私には明確な考えがない。   
   「駅裏8号倉庫はなぜなくなったのか」と若い人に問われたときにも
   ちゃんと答えられなかったのだが、
   その後、折にふれこのことを考えていると、思い当たることが色々出てきた。
   中森さんはブログでこんな風に整理している。
   「民が主体となってオーバーフエンスした’80年代。
    公が主になりパブリックアートが主流を作っていく’90年代。
    現在は公と民の狭間にいる個が主となる傾向の時代。」
   これは全く、私の軌跡そのものだ。
   4丁目プラザ自由市場や、駅裏8号倉庫に関わった80年代。
   STP(さっぽろシアターパークプロジェクト)や北海道演劇財団の設立に関わった90年代。
   個人にもどってレッドベリースタジオを運営している現在。
   自分で選んできたはずの道筋が、大きな流れをそのまま体現している、ということは
   喜ぶべきことなのか、がっかりすべきことなのか。
          
   村岸宏昭さんという、私は会ったことのない若いアーティストの突然の死について
   話を聞いた。7月にテンポラリースペースで展覧会を開催し、
   2週間後に高知で、川で遊泳中に水死したのだという。22歳だったという。
   帰ってから、村岸さんのホームページを開いて、どんな展示だったのか、
   どんな雰囲気のひとなのか、うかがい知ることができた。
        
   帰る道々、なにか話したかったことがある、という気持ちが残った。
   それが何だったのか、形にならなかったのだが、分かってきた。
   私は漠然と、「死」について話したかったのだと思う。
   いや、中森さんとはそんな話をしたんだな、と思っている。
   
   きょう、岩沢健蔵さんの命日。ひと月、経った。
   今月は忠海光朔さんの3回忌。昨年7月に亡くなった山科俊郎先生。
   12月に亡くなった永井秀雄先生。今年1月に亡くなった古川善盛さん。
   おなじ1月、世田谷の叔母が亡くなった。そして3月に亡くなった萬年俊明さん。
   おととし、会議中に目の前で亡くなった木路毛五郎さん。
   ひとたちをあらためて想うだけでなく、
   日々の暮らしの、身の回りのなにもかも、の背景にそれが見えて、
   ある意味で、ひどく世界が広大に、深遠になった。
   そんな話を、だれかと、ぽつぽつ話したい。   


9月2日(土)  あちこち出かけた、見た、聞いた。

  9月、だ。われにかえるような気分。
  このところ、見聞きしたこと。

  8月28日(月) PTAの研修ということで、初・あさひやま動物園。
        ウィークデイなのにひどい混み様。それでも、あざらしとオランウータン、見たよ。
        ペンギンやチンパンジーもちょっとだけ。
        動物園、あれ以上大きくならないといいな。
        食堂はカフェテリア方式というのか、10数種類のメニューから料理を選ぶのだが
        ちょっと懲りすぎという印象。これまたひどく混んでいるし。
        
  9月29日(火) 夜、3月に亡くなった萬年俊明さんのご自宅を訪ねる。雷雨。
        毎月命日には、古くからの劇団仲間が集まっているという。
        萬年さんの長い闘病生活のこと、百貨劇場アレフの頃の古い話、
        亡くなる前後のことなど、ゆっくりと聞かせてもらった。
        昨年3月の「亘理渡来記すえ語り」公演で脚本・演出を担当してくれた後、
        世界でも新しい治療法に挑戦して、かなりの効果を得、
        6月頃から小説を1本、書き上げたそうだ。
        この作品は「群像」の第1次選考を通過したことが、亡くなった後、発表された。
        また11月にはアンコールワットへ旅行もしたという。
        医師や看護士から「不死身」と言われた萬年さんは
        最後には、なにかとても嬉しいものを見たような満面の笑みを浮かべて逝ったという。

  9月30日(水) 当別ハレルヤ農産レストランで、「風弦流し」のライブ(ランチつき)を聞く。
        ケーナ、バイオリン、ギター、パーカッションの4人。
        全員が芸大出身という若者のグループ。一人一人の音をもっと聞きたかった。
        (情報によればディナーライブでは、じっくり聞かせたそうだ。残念)
  
  8月31日(木) 島松(恵庭市郷土資料館修景広場)にて、門づけ芝居「北へ」を見る。
        黒い森を背景に、かがり火を焚き、池の水も生かした絶妙の野外舞台。
        開演前、小雨が落ちて心配だったが、どうにか保った。
        明治初期の北海道で寒地農法を研究して「米」をつくった中山久蔵の物語。
        「八軒物語・すえ語り」と通い合うテーマだが、視点、持ち味が異なって面白い。

  9月1日(金) すすきの「ピアノーラ」へ。長谷川聡さんに紹介、同行していただいた。
         小さなお店にグランドピアノ。カウンター席は常連の音楽好きで満席。
         次々にステージへ向い、マスターの江河徹郎さんのピアノで
         お気に入りのジャズナンバーに挑戦する。
         江河さんのピアノは、本当に素敵だ。
         柔らかくキリッとした、シャレたフレーズ、粒だった美しい音色。
         かつてはパークホテルやエンペラーで活躍した筋金入りのプロだ。
         フルーツの形をしたマラカス(これ、すぐれもの)を振るママの、
         えもいわれぬ楽しそうな風情。
         バイオリニストで、ピアノも、ウッドベースも、お店の仕事もバリバリこなす
         お嬢さんの美音さん。とっても素敵なお店だった。
         実は、レッドベリーでライブをしていただけませんか、というお願いでうかがった。
         実現を目指して・・・。